よし子のこと

薄暗かった通りに陽が差して、じりじりと暑苦しい空気が照り返す。

お昼時が過ぎて、向かいの屋台に集まっていた人がばらけていく。

辺りに漂っていたカオマンガイやカオカオムーの肉の匂いが、少しづつ薄れ始める。

陽の差し込む軒先から離れて、よし子は扇風機のあたる店の奥へと歩き出した。

カランカランとドアベルが鳴って、じゅわっと生温い風が入り込んでくる。

よし子は振り返らないが、あの人の匂いに立ち止まる。

誰が入ってきたのかは分かっているのだ。


入り口付近の50バーツセールのコーナーを隅から隅までざっと見て、ワゴンの中もざっと見るけど埃を被った本を手には取らない。

真ん中の準新作ノベルの棚はもう半年以上入れ替わっていないのを知っているのに、何度も見たはずの本の表紙をボーッと眺めている。

ガイドブックなんて必要ないはずだけど、旅行ガイドや地図のコーナーでは必ず立ち止まる。

もうとっくに知り尽くしたこの街のガイドブックを懐かしむように見つめたあと、旅行者たちが置いていったどこか遠い国のガイドブックを、たまに手に取ることがある。

どこか遠くに行くつもりなんだろうか。


よし子は気付かないふりをして、棚の下に出たり入ったりしているゲッコーを見つめている。

ひと通りいつものコースを徘徊し終えたその人は、よし子の側に来て背中を撫でた。

時間が止まる。

彼がこうしてよし子に触れるたび、なぜかいつも時間が止まるような感覚に襲われる。

さっきまで出たり入ったりしていたゲッコーはいなくなって、誰もいない店内に扇風機の風音だけが静かに響いていた。

時間が止まっていればいい。

このままもう何も動かなければいい。



その人がここにやってきたのは、数ヶ月前の雨の日だった。

このあたりの雨季には突然スコールが降り、右も左も雨粒に遮られて歩けない瞬間がある。

どうしようもなくなって店に入ってきたその人は、くるくるとした金髪が雨に濡れ、その隙間に見える青緑の瞳と、睫毛に落ちた水滴がキラキラ光っていた。

よし子がちいさかった頃、母さんのおっぱいのしずくがこぼれて、それが陽に照らされてキラキラ輝くのを見るのが好きだった。

キラキラは優しさと、あたたかさと、眠ってしまいたくなる気持ちを連れてくるから好きだ。

店主が出してきた椅子に腰掛けて雨が止むのを待つ間、その人はずっとその澄んだ瞳でよし子のことを見つめていた。

興味深そうに、時に愛おしそうに。




猫だというのはわかっていた。

彼が「可愛いね」と言って撫でる背中にびっしりと生えた毛も、嬉しそうに頬を寄せる肉球も、時折少年のような目をして指でつつく尻尾も。

全てが彼と違うことに、よし子は気付いていた。



ここにやってくる人たちは、どうやらとても遠くから来るらしい。

海を渡って、どこか遠い国からやってくる。

数日であっという間にいなくなる人もいれば、しばらくこの街にいることもある。

毎日店の前を通るのが何ヶ月か続いたと思ったら、ある時ぱたりといなくなって、ずいぶん時間が経ってからまた現れることもある。

そんな人達が置いていくどこか遠い国の本を、この店にはたくさん売っている。

海の向こうの言葉で書かれている本を手に取って、また新しい海の向こうの本をここに置いて去っていく。

まあ海というやつがなんなのか、よし子にはよくわからないんだけど。



カランカランとまたドアベルが鳴り止まったはずの時間が動き出した。

買い出しから戻った店主が彼に気付きコーヒーを淹れる。

今日の彼は、ずいぶんと大きな荷物を背負っていた。


彼が一冊の本を店主に差し出す。

それはいつか彼が始めてここに来た時に買っていった、この街のガイドブックだった。

旅行ガイドの棚にその本を戻した彼は、どこか遠い国のガイドブックと、何度も眺めては素通りしていた準新作ノベルの中の一冊を手に取る。


コーヒーを飲み終えた彼は、本をぱんぱんのバックパックに詰めて、店主にハグをした。

そしてもう何度も繰り返したのと同じように、よし子の頭をそっと撫でて額にキスをした。



時間は止まってなんかいなかった。

夕方になるとまた屋台がやってきて、肉を焼く匂いと喧騒の中に、あと少しだけの彼の残り香も消えていった。