答えはいらない、つまんなくなるから

子供の頃からもう何千回通ったかわからない、国道の横断歩道に私は立っていた。

いつものように信号が青に変わるのを待っている間、陽射しが残酷に照りつけて「ハァ〜むりぽ」って思いながらもただ為すすべなく立ち尽くしていた。

今まで何千回も繰り返したのと同じように。

なんとなく上を見上げた。

自分のすぐ右手に、歩道橋が見えた。

え。

もう永遠に繰り返したことのはずなのに、私はここに歩道橋があることを知らなかった。

いや知ってはいたはずだが、渡ったことがない。


たぶんこれまでにもそんなことはあったと思う。

何千回もあったと思う。

何の気なしに空を見上げて自分の1m右にある歩道橋の階段を、私は見ていた、はずだ。

何千回も。


階段を登ったら消えてしまう幻の歩道橋なのか?

だから私は今まで当たり前のように、目の前にある「道」を無視し続けてきたのだろうか。


階段を登ってみる。

なんだかめちゃくちゃ怖い。

私がここを登ったら何十年も封印されていたものを解放してしまい、歩道橋がパカーンて割れてドドドって地割れが起きて「ドラゴンヘッド2020」みたいになったらどうしよう。

いやしかし気付いてしまったからには後戻りできない。


ビクビクしながら階段を上がるが地割れは起きず、私と東京の男子高校生の体が入れ替わることもなく、1分後、私は普通に道の向こう側にいた。

信号が変わる前に。



なんてこった。

自分がいかに盲目に、物事にひとつの「答え」を出してやり過ごしているのかを思い知らされた気がした。

ただなんとなく「ここでは信号を待つ」というパターン化された思考と行動を疑うことなく、私は永遠に目の前の歩道橋を無視し続けていたのだ。

進める道は何十年もずっとそこにあったのに、「ここにはこの道しかない」と思い込んでいるとき、人は本当にそれ以外見えなくなる。

人間の、というか私の認知力なんてそんなもんなのである。

うちらってさ、放っとくとマジ自分が見たいものしか見やがらないんだよね、結局。


自分が

「これしか選択肢がない」
「これは不可能」
「この人とは相容れない」

みたいに思っていることって全部ウソなんじゃねえかと思った。

目の前に広がる道を前にして「ここには道がありませんよ!」とか言うんだから、自分の顕在意識なんてとんだウソつき野郎である。


自分の直感を信じることは大事だが、何度も繰り返しているパターンに関しては自分を疑ったほうがいい。

大体にして自分の意識はウソをついている。

見えているのに見えないフリをして、ひとつの答えを出すことで安定を保っている。

「これがホメオスタシスというやつです」

自分のなかのウソつきオッパッピーが嘯く。

もうこんなヤツに任せてはおけん。



私たちはなんか、目の前のことにやたらと「答え」を出したがるんですよね。

あっちが正解、こっちは間違いとか。

人の話をただ聞いているだけでも、それが自分にとって「正しい」のかどうか、自分はそれに賛同しているのかどうか、って、四六時中「イエス」か「ノー」を自分の主観で考え続けている。

それはまあ選択の連続である人生において、必要なエッセンスでもあるのだけど。

ただそれがあくまで自分の主観であることを忘れてはならない。

自分の主観=さっきのウソつきオッパッピーだったりするので、案外間違ってるんだわ。


自分で「ないもの」としてしまっている可能性が、たぶん無限にある。

簡単に答えが出ているものを、そしてずっと繰り返していることを、疑ったほうがいい。

ひとつの答えなんて、そんなすぐに出さなくていいのである。

最初から結論なんかあったって、どうせ話がつまんなくなるだけなんだから。