More than words 言葉に収まらない、愛に関する考察

この歳で結婚していないことや元々なんか節操がなさそうなことも相まってか、わりといつも恋愛において「快楽だけを追い求めてそう」「嫉妬とかの概念がなさそう」とか第三者から言われることが多い。


実際そうなのかというと、私は猛烈に嫉妬深い女である。

たぶん私の歴代恋人たちならばよくわかるだろう。
頷きすぎて男たちの首がもげるのが目に浮かぶようだ。

私の嫉妬の炎ときたら島国ひとつ燃やし尽くせる激しさだし、きっと破壊神カーリーも怯えている。


ただここで注意したいのは、元来嫉妬深いこと=相手を縛り付ける付き合い方しかできない、ではないということ。

私がなんか細かいこと気にしてなさそう、と言われるのは、自分自身の嫉妬深さは相手に由来するものではなく、自身の業だと思って向き合っているからではないかと思う。


現代社会においては一夫一妻が法的に定められ、それが「愛のかたち」であるかのように粗雑に語られるが本来愛に形などないものである。
そのことを認めることができず私達は他者を縛り形の中に押し込めることで、愛をコントロールしているかのような錯覚に陥る。

でもそもそも愛は天災のように無条件に巻き起こるもので、コントロールしようだなんて土台おかしな話なのである。


15歳の時の初恋の彼には恋人がいた。
思えばあの時からずっと、私は自分の「愛をコントロールしたい」という欲望と1人で向き合い続けてきたような気がする。

いやもちろん常に他人の男にばっか手出してたわけじゃないですよ?笑

でも長く一緒にいたパートナーもコンサバなタイプではなく自由な人が多かったので、彼らなりの愛し方というのを理解するために四苦八苦した。
まあ選んでそうしてたんだけど。
そして私自身も世間の決めた形に収まるような愛し方ができる女ではなかったので、過去の恋人たちは私を理解するために苦しんだりもしたのだろう。

でもそうやって落としどころを探すうち、私は結局相手ではなく自分と向き合い自分を鍛えているような感覚になってきた。
恋愛は2人(または複数人)でしているのに、いつも最終的に向き合わざるを得ないのは自分なのである。


強く愛すること。

かたちに限らずこの「強さ」こそが愛の本質ではないかと最近は思っている。

美しさとか喜びとか、そういう愛の種になるものに人は魅了される。
でもそれらは人を魅了するだけあって、強い。

とても強いから、自分自身が強くないと負けてしまう。
愛をただ美しく喜ばしいものとして享受するには、強くなければできないのであろう。


気づけば私の周りの数少ない友人には、そうやってかたちを越えて強く愛し合っている人たちが多いなあと思う。
彼らが最初からなんの葛藤もなくそういう愛し方ができたわけではない、ということもよく知っているのだが。

かたちを模範する人たちとは、鍛えた筋肉が違うのだ。
どちらが正しいとも言わないが、ただ違うだけ。

強く愛し相手の自由も欲望も全て野に放つつもりで受け入れる時、それは自分自身を野に放つことでもあると思う。

ただ相手の言いなりになり自分を押し殺す、といったような概念とは別物だからだ。
そういった自己犠牲的な概念は「かたち」が念頭にあることで生まれるもので、そもそも愛はかたちのないものという前提で愛を始める時、まずは自分を野に解き放つしかない。

自分自身の情動も欲望も全てかたちのないものとして解き放った時、そこで始めて相手のことも自由に解き放つことができるのではないか。

どちらかがかたちに縛られている限りは、他者のfree willを認めてそれもひっくるめて愛するなんて無理なのである。


30代も終わりに近づいてなお恋愛現役の私が学んだのは、強く自由に愛し続けるためには、まずは決死の覚悟で自身を野に放ち、自分の矛盾も身勝手さも攻撃性も全て一旦解き放ってただ見つめる必要があるということだったようだ。

そのためには強さが必要。

無限に向かって放たれる強さ。
囲いを崩し無の中に1人で佇む強さ。

私はそれが愛するということだと思っている。