“Don’t let anybody underestimate you(including yourself).”
片付けしていて出てきた古いノートに自分の字で書いてあった。
いまアメリカではBLMのプロテストが続いている。
そのムーブメントの余波はここ日本にも届いていて、アメリカのシステマティックな黒人差別だけでなく様々な人種・ジェンダーへの差別が議論の的になり始めた。
私はアメリカという国の差別の歴史に精通しているわけではないのでそこについて偉そうに語るつもりはないが、どういう形であれ人種差別というトピックがクローズアップされる時代になったのは世の中の進歩だと思っている。
(と同時に、2020年の今になるまで何百年もそれが続いてきた、ということでもあるんだけど。)
最近ドイツ人の友達に、自分は3rd generationのコリアンジャパニーズで「ザイニチ」という括りにされるけどしっくりこなくて、まあ日本ではこういうの色々複雑なんだよね、とポロッとだけ話した。
するとその人は次の日「韓国と日本の歴史については知らなかったから、自分なりに少しだけど調べた」と、彼なりの考えを述べてくれた。
別に出会う人みんなにそうして欲しいなんて微塵も思っていないが、多分そういうことを言ったり少しでも知ろうとしたりしてくれた人は、36年間生きてきてその人が初めてだったと思う。
そのくらい、自分が当事者でない人種差別なんて誰も重要視しないものだ。
私と長くつきあっていたパートナーですら、あまりそういう話をしたがらない人が多かったし、なんならそれが問題で別れたことも何度かある。
これ日本人の友達に言っても「え〜ほんとにそんな人いる?」って言われるんだけど、若い頃つきあってた相手の親に「今はいいけど、うちと結婚とかは無理だからね」ってはっきり言われたこともある。
まあ確かに信じられないし信じたくないよね。
でもあるんだよね。
私は子供の頃からずっと自分は「持たざる者」だと思っていた。
まあ世界を見渡せばもっと持たざる人たちはいっぱいいて、日々食べることに困っている人だっているのだけど。
ただ私が生きてきた日本社会では、確実に私は「持たざる者」の側だった。
というかそう思わざるを得なかった。
日本に人種差別はないとかいう人は、ちょっと私と人生入れ替わってみてもらっていいですかね。
こういうこと言うと右寄りの人に絡まれて本当に本当に面倒くさいんだけどさ。
ほら、曲がり角で飛び出して勢いよくぶつかったら体が入れ替わって…っていうやつ。
マンガでよくあるやつな。
あれやろうぜ。
でも「持たざる」ことってな、何もその人に否がないんですよ。
それについてあーだこーだと責められるうちに気付いたら「自分が悪いからそうなった」みたいな感覚に追い詰められていくんですけど、
どんな人種でどんな肌の色でどこの国に生まれてどんな親に育てられたとか、それ全部誰のせいでもないからな。
「持たざる」ことが悪しきこと・恥ずべきことだとする感覚は、資本主義社会における競合に必要なエッセンスだったんだろうか。
でも本来は、持ってないもんは最初から持ってないんで悪にも恥にもなり得ないわけ。
歴史持ち出されても、生まれる前のことはさすがに私に責任ないはずなんだがな。
“Don’t let anybody underestimate you”
は自分に対する言葉だったんでしょうね。
どこで生まれて、どんな肌や目の色で、どんな風に育ったかで、その子が人生でできることが決まってしまう。
地球上の至るところでそれは起きているけど、そんなの錯覚だからね。
どんな子供も自尊心を傷つけられることなく、安全で自由に生きられるように。
私達ができることってなんでしょう。
たまたま見かけた東京のDJコレクティブ・CYKのステートメントが素敵だったので置いておきます。
CYKのTwitterアカウントないので僕から。
— Kotsu (@95kotsu) December 31, 2019
①2020年CYKの主催パーティーにおいてはディスカウントを撤廃します。
②2枚目のステイトメントをもとにしたフロア作りをお約束いたします。
それではまた、ダンスフロアでお会いしましょう。 pic.twitter.com/3rpD5ZAI5x
ダンスフロアは絶対に自由でなくてはならないよね。
自分が当事者でない人種や性差別を、完全に理解するのは無理だしそうしてほしいとは私も思ってない。
でも傍観者にならないことと、自分の考えをもつこと、諦めないこと。
それはきっと誰かの助けになると思います。